ドーバーの絶壁

MUSICとLITRATURE

ヨーロッパ近代史にハマった

今まで、”世界史”というものに若干の苦手意識を持っていた。大学受験の頃は世界史を先行していたにも関わらず、肝心の成績は振るわなかった。世界史マニアの友人に、「世界史のどこにそれほど惹かれるの?」と聞いたところ、「そりゃロマンがあるからだよ。古代に作られたストーンヘンジとか、ロマン感じないかい?おお?」という返答をもらったが、イマイチ実感が湧かなかった。

 

ところが、最近、歴史ってもんはとんでもなく面白いものなんじゃないか、という歴史のポテンシャルにやっと気付き始めた。僕はクラシック音楽が好きで、モーツァルトやバッハは大好物だ。先日読了したHaward Goodallの『音楽の進化史』という本に触れてから、音楽の歴史をちょっとだけ知った。その結果、偉大な作曲家が生きてきた時代の背景、政治経済文化といったものに、この歳になってようやくながら興味を持ち始めた。

 

ヨーロッパの近代史をピンポイントに扱った入門書というのは意外に少ない。こういう時に非常に役立ってくれるAmazon先生に伺ったところ、新書の入門書で良さそうなものが二冊見つかったので購入した。

近代ヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

近代ヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

 

 

ヨーロッパ「近代」の終焉 (講談社現代新書)

ヨーロッパ「近代」の終焉 (講談社現代新書)

 

 どちらも非常に読み易く、各々違った観点からヨーロッパの近代について教えてくれる。

 

更に、光学の進歩・マニエリスム・薔薇十字団という視点からヨーロッパ近代史について語っている以下の書籍も大変面白い。

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

 

 

これらの本で、まずはヨーロッパ近代史についての基礎体力をつけたいと思う。

 

 

Haward Goodall著、夏目大訳『音楽の進化史』

先週、池袋のジュンク堂にて大変面白い本と巡り会った。

”はじめに”という導入部分の、以下の引用文を読んで欲しい。

音楽の歴史はまだ続いている。これからも誰かの創意工夫、新たな発見によって音楽は変革されていく。次の大きな飛躍がどこで起きるかはわからない。北京の目立たない裏通りかもしれないし、イギリス、ゲーツヘッドの地下室かもしれない。モンテヴェルディモーツァルトモータウン、マショー、マッシュアップ・・・どういう音楽であれ、それに使われている技法は偶然生まれたものではない。必ず、最初に考えだした人がどこかにいたはずである。私がこれから語る音楽の物語を読む際には、まず、頭の中から現代の常識を追い払って欲しい。そして、今、私たちが当たり前のものだと思っている数々の技法がまだ生まれたばかりだった頃のことを想像してみて欲しい。当時の人は、どれだけ驚き、戸惑ったっだろう。また、どれだけ喜んだだろう。

 もうこの部分だけで、このイギリス人のクラシック作曲家が書いた本の虜になってしまった。音楽の歴史の本を読む最大の楽しみ、意義のようなものが見いだせた

 

この本の原題は『The Story of Music』で、その名の通り、音楽の発展・剽窃・流布の歴史を物語として描いたもの。BBCのテレビシリーズとして放送もされており、あくまで一般の音楽愛好家に向けて書かれているだけあって、専門用語も極力控えめだ。例えば、ソナタ形式についてくどくどと説明するようなことはしない。なぜなら、「ひどく退屈だから」(笑)

 

本人がクラシック作曲家なだけあって、現代におけるクラシック音楽のポジションについては少々愚痴がこぼれている。昔の作品にスポットライトが当たりすぎて、新鮮な風が吹かないことを嘆いている。作者によると、クラシック音楽の新作が最も輝いているジャンルは映画音楽だそうだ。これには納得。

 

僕が最も強く感じたことは、音楽に対する考え方が、時代にいかに左右されているかということ。個人的な経験だが、大学時代にインターネットや様々な本に触れて、「音楽の世界を国境やジャンル分け隔てなく、自由に泳いでいきたいなあ」と素直に感じたことがあった。

 

普段はクラシック音楽なんて滅多に聴かないという人でも、PopsやRock、EDMに比べてクラシック音楽や各国の民族の音楽の価値が劣る、という考えの人は少ないだろう。どの音楽にもそれぞれの価値があり、それらは尊重されるべき、という考えは、正しく今私たちが生きる時代の価値観を反映したものだと思う。

 

クリック一つで様々な音楽にアクセスできる現代だからこそ、音楽の歴史を広く知りたいと思うことは自然な欲求だ。この本はその欲求を満たし、更に高めてくれる。我々は何と幸せな時代に生きているんだろうか、とため息が出る。

 

 

音楽の進化史

音楽の進化史

 

 

西蔭浩子『英語リスニングのお医者さん』

英語に関して、苦手意識を持っている日本人は多いと思う。僕もその一人であり、大学受験のときは英語が得意科目で、とりわけ読解は格好の点稼ぎにはなっていたのだけれど、いざ勉強という枠からはみ出した途端、字幕無しの洋画はサッパリ解らん、大衆小説の洋書も始めはちんぷんかんぷん、ろくに会話もしたことが無いので道案内もしどろもどろ・・・という英語アレルギーに冒されている。

 

2年程前から洋書を少しずつ読むようになり、手を付けては諦めての繰り返しだが、「この本は何とか読み通せそうだ」というラインは何となく目星が付くようになってきた。それでも、解らないところは読み飛ばし、多くの部分を推測に頼っているので、洋書を味わっているとは言い難く、表面をぺろりと舐めている程度に過ぎないように思う。

 

読める、というラインの曖昧さと比べると、聴けるというのは実にハッキリとしている。all or nothing, その音を知ってるか知らないかの違いで明暗が分かれてしまう。しかしこれはポジティブに捉えるなら、その音を一回モノにしてしまえば道が開けてくるのではないか・・・

 

という訳で、『英語リスニングのお医者さん』という本に取りかかっている。日本人が陥り易いリスニングの弱点を、短縮ウイルスや連結ウイルスといったユニークな表現で診断し、そのリハビリ(ひたすらリスニング)を行う、というもの。弱点に絞ってトレーニングする方法は理にかなっているように思う。ちなみに僕は連結ウイルスに冒されているということが判明した(in an hourをイン・アン・アワーとぶつ切りに聴き取ろうとする症状)。

 

これでリスニングに関する英語アレルギーが良くなったら安いもんだ、淡い期待を抱きつつ、一ヶ月程経った後に「これで私も英語が聴けるようになりました!」という石川遼ばりのコメントを本ブログに掲載したいものである。

 

 

英語リスニングのお医者さん [改訂新版]

英語リスニングのお医者さん [改訂新版]

 

 

ケネス・B・パイル『欧化と国粋』

日本の政治は兎にも角にも高齢者びいき、それも当たり前で代議員が老人ばかりだから、それならば、若い人たちが政治を執ったらどうか・・・という事を考えたりする。ところが150年ほど歴史を遡ると、そのような実例が日本には存在している。時は19世紀半ばから後半にかけて。1853年にペリー率いる黒船来航があって、1868年に武士特権階級に属する一党派が国家改変に乗り出す(王政復古の大号令)、まさにこの時期は、青年達が国を動かしていった時代。

 

ケネス・B・パイルの『欧化と国粋』という本には、この時期の青年達の苦悩や戦いがありありと描かれている。これがめっぽう面白く、また考えさせられる。現代に生きる僕らにとって国粋は、明治に生きていた青年達に比べるとファッション感覚に過ぎないんじゃないかと思われるほど、欧化と国粋について全く意識していないことに気付く。世界に誇れる現代の日本の文化を、COOLJAPANと銘打って輸出してみても、何か上滑りな感が否めない原因もここにあるのではないかと思う。

 

明治初期の青年達は、この問題について苦慮し、悩みに悩んだ末に精神を壊す者も多数存在した。世界を知り、科学技術や政治制度など全く新しいものに触れた若者たちは、幼少の頃から儒教中心の教育を受けてきた訳で、2つの価値観を多感な時期に享受することが出来た。出来たというより、しなければならなかった。西洋の価値観を取り入れることは、自国の文化を捨て去ることになるのか、それは進歩史観で片がつくのか。そもそも、日本が世界に誇れる文化とは何か(西欧化の改革が最も盛んな時期には、その様なものは無い、と答える青年も多かったという)。

 

『欧化と国粋』では、その時代において意見を戦わせた2つの若い集団、民友社と政教社にスポットライトが当てられている。日本社会の完全なる西欧化を追求するか、それとも、明確な文化的アイデンティティを保持したままの西欧化か。これは現代でもずっと残されたままの問題になったまま、多くの人は心の奥にそっとしまっている問題でもあると思う。なぜ解決されなかったかのか。以下は本書の最後の文からの引用である。

 健全に育つことのできる自己イメージを形成するという課題は、きわめて困難であることが明らかになった。一方では国家の過去の遺産からそれは練り上げなければならないし、他方においては、それは知識の進歩や産業社会の変化する状況に応ずるものでなければならないからである。

10年間の最後に支配力を握ったものが頑迷な国家主義精神であったことは、日本人のほとんどがこのようなバランスをとることに失敗したことを物語るものであった。

 優秀で頭脳明晰な青年たちは、結果健全なバランスをとることに失敗し、戦争にひた走ってしまったというのは、痛ましく、悲しい過去であると思う。

 

欧化と国粋――明治新世代と日本のかたち (講談社学術文庫)

欧化と国粋――明治新世代と日本のかたち (講談社学術文庫)

 

 

Pet Shop Boys / New York City Boy

とってもイケてる曲に出会ったので投稿!

1999年発表、Pet Shop Boysの『New York City Boy』!

有名な曲らしいので、ご存知の方は「ああこれね」ってなるかもしれないけど、僕が抱くNYへの憧れをそのまんま表現したような、キラキラとしたサウンド・・・

 


Pet Shop Boys New York City Boy - YouTube

(ゲイ・カルチャーを反映しているようで、そのケが多いPVではある・・・)

 

蛇足だが、この曲はシィーとかチィーといった破擦音がはっきりしているので、スピーカーのコンディションを知るには良いリファレンスになるかも知れない。かも。

 

ラフォルジュルネ2014東京でラフマニノフとベートーヴェンを聴いた〜その2

仕事で、1979年の紅白歌合戦の音源を聴く機会があった。司会は山川静夫水前寺清子、最多出場は島倉千代子、初出場がサザン・オールスターズにさだまさし、選手宣誓に始まり、蛍の光で終わる、僕が未だ生まれていない頃の紅白。非常に活気に溢れている雰囲気が伝わってきた音源だった。現在は、それから35年経過した2014年なうであり、熱気はやや失せてしまったかもしれないけれど、音楽番組としてはとても面白く、興味深いものが僕にとっての紅白。ただ、”国民的番組”という感じはしないかもだなあ・・・

 

先日のゴールデンウィークに行われたラフォルジュルネは、国民的とは言い切れないけれど、大勢のファンによって支えられている”市民的イベント”だと思う。東京という土地柄も大きいが、ほとんどすべての公演が売り切れ、しかもAホール千秋楽は当日券完売(去年よりも早いペースだった)。第10回にして勢いは留まるところを知らない。是非これからも続いていって欲しい。

 

・・・という、締めくくりに似つかわしい文章を先に書いてしまったが、気を取り直して、ベートーヴェンの協奏曲を、ラフマニノフに続いてホールAで聴いた事について。

f:id:hiro_sound:20140507235339j:plainMarina Chiche

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、僕にとって幼少からとっつきにくい曲だった。チャイコフスキーは何と言ってもキャッチーで、大衆的な、まるでポップスのような明るい雰囲気に溢れている。ブラームスは硬派だけど、メロディーの美しさ、悲しさが凝縮されている。メンデルスゾーンに至っては、周りの学生が血眼になって弾いているので、否が応でも耳に入ってくる。ところがこの”楽聖”の描いた協奏曲は、ものすごく特別な地位を与えられているようで、何故だかこちらが怖じ気づいてしまう・・・

 

まずはそれらの神聖なイメージをすべて取り払って、改めて聴いてみると、なんと素晴らしい、天上の音楽なんだろう・・・という発見に心を打たれてしまう。

 

マリナ・シシュはフランス出身のヴァイオリニスト。美しい。音色は非常に澄み切っており、ふくよかとは正反対のイメージ。表現力が非常に豊かだと感じた。ポルタメントで味付けしてみたり、ノンビブラートを効果的に交えてきたり、フォルテではガラっと勢いのある表情に変化したり・・・とにかく右腕の弓の使い方がべらぼうに上手い。氷上を滑っていくようなボーイング、これはもう天才以外の何者でも無いんじゃないか、と一人で勝手に結論づけてしまおう。とりわけ、1楽章は大変素晴らしかった。(ところでこれまた僕の勝手なイメージなんだけれど、ヴァイオリニストの音色はボーイングはもちろんだけれど、左手の指の太さに大きく依存するんじゃないか、と思っている。視覚的なイメージが先行しているのかもしれないが、間接の太い無骨な指からは、豊穣で厚みのある音色が紡ぎだされるような・・・パールマンしかりオイストラフしかり・・・)

 

以上、2公演を聴いたのみの感想だが、現代の若手アーティストの最前線を聴け、それぞれの素晴らしい表現力を堪能させてもらったラフォルジュルネ、是非また来年も行きたいものです。

 

最後に一言ボヤキ。クレーメルアルゲリッチ聴きたかったぜ!!!

ラフォルジュルネ2014東京でラフマニノフとベートーヴェンを聴いた〜その1

先日は久々の投稿で日本文学史における不朽の名作、漱石大先生の『明暗』を、「会話文の凄さ」という観点から取り上げた。まあしかし、これは完全に筒井康隆『創作の極意と掟』の影響を受けている訳で、この小説の魅力の極々一端に過ぎないんだろうなと思う。その『創作の極意と掟』も、アイデアの多くはデイヴィット・ロッジ『小説の技巧』という本に依っている。”面白い作品に巡り会ったらそのルーツを辿ろう〜”ということで、現在はこちらのネタ本を貪り読んでいる。イギリス文学の教授であり小説家でもあるデイヴィット・ロッジが、文学作品上のテクニック、表現の多様性について、極上のネタを与えてくれる。こういう面からイギリス文学にアタックしていくのも面白いかもしれない・・・と小説の話題はここまでにして、最近の僕のゴールデンウィーク中最大の楽しみである、ラフォルジュルネに行ってきた話を。

 

ラフォルジュルネとは、フランスのナントで毎年開催されているクラシック音楽のフェスティバル。演奏時間は短いが、一流のアーティストの演奏が格安で、朝から晩まで楽しめるという、クラシックファンにとってはたまらないイベント。日本でも真似して開催してみたら大当たりして、今年で10回目、東京・金沢・新潟、滋賀でも開催されている。

 

東京公演の会場は東京国際フォーラム。学会のシンポジウムからロックのコンサートまで幅広い催し物が行われている(フランツフェルディナンドのLIVE楽しかったなあ・・・)。今回、僕が観たのはホールAでの最終日、

の2公演。率直に感想を書くと、”いやあ、やっぱりクラシックっていいですねえ”の一言に尽きる。この感慨を誰かと語り合いたいのだけれど、如何せん僕の周囲にはゴールデンウィーククラシック音楽に費やそうという人々が居ないので、一人で浸るしかないのがちょっと残念。なのでこのブログに感想をアップします。

 

f:id:hiro_sound:20140507085032j:plainRemi Geniet

 

まずはレミ・ジュニエのラフマニノフ3番。ラフマニノフと言えば2番のピアノコンチェルトが屈指の名曲として知られているが、こちらの3番も負けてはいない。今日び演奏されるピアノコンチェルトの楽曲の中では、恐らく最高難易度の曲に挙げられる。もうこの曲の3楽章を聴く度に、頭の中のアドレナリンが一気に噴出する感じ、未聴の方はぜひ味わって頂きたいと思う。ソリストはレミ・ジュニエという若手のピアニストで、実に嘆声な顔立ち。時代が時代なら、宝石の詰まった手袋が客席からびゅんびゅん投げ入れられていただろうなあ。第一楽章は物憂げなメロディーから始まるのだが、タッチが非常に優しい・・・というか優しすぎる。弱音でここまで粒を揃えられることは素晴らしいんだけど、自分が思い描いていたラフマニノフの3番とは大分イメージが異なって、カウンターパンチを食らってしまった。

 

実は、この公演は本来別のソリストが演奏する予定だったのだが、急遽来日がキャンセル。そこで、前日に同じ曲を演奏しているレミ・ジュニエに、「曲目は同じなんだからあなたぐらいでしょ、弾けるのは」というノリで(恐らく)日の目が当たった。これは非常にやりにくかったんじゃないかなあと思う。そもそも、この恐ろしい難曲を2日連続で、しかも違うオケとやるというのは何ともファンタスティックな悪夢だったんじゃないかなあ。

 

オケとは所々噛み合ないところがありつつも、淡々と楽曲は進んでいく。このままだと「線が細い感じだな、上手だけれど」という印象で終わったんだけれど、最終楽章のラスト直前、コーダに入る前の美しい演奏はまさにロマンティックで、心揺さぶられてしまった。オケともバッチリ合っていたし、それまでの緊張感が解放されるよう・・・そうだ、レミ君は解放されたのだ。これからどうなっていくか、非常に楽しみなアーティストとなりました。

 

そろそろ仕事へ行く時間なので、ラフォルジュルネの感想はここまでが前編、ということで、一端幕を下ろそうと思う。