ドーバーの絶壁

MUSICとLITRATURE

夏目漱石『明暗』

久しぶりのエントリー。そう言えば前回は、佐村河内守と、現代音楽の扱われ方についての所感を書いた訳だけれども、読み返すと改めてひどく退屈な内容だなあと思った。何でもいいからブログを書こうという見切り発車に時事ネタを絡めて、偉そうに自分の意見を乗せていこうというスタンスは、結果的に駄文を生むんだろうな。自分が日頃から考えてきて、頭の中で寝かせてある問題なら、それなりに形にはなるだろうけれど、野次馬のように週刊誌の三文記事について躍起になって文字を打ち込んでいる姿、今思い返しても身の毛がよだつ・・・

 

近頃は少しずつ、読書を進めていて、これまでしばらく遠ざかってきた「小説」を再び読むようになった。きっかけは、夏目漱石大先生の『明暗』を完読してから。そしてそもそも『明暗』に至ったのが、筒井康隆先生の『小説の極意と掟』という本を読んでから。この本の中で、「会話文が凄いのは夏目漱石の明暗」という一文を見つけて、夏目漱石に手を付けた。『坊ちゃん』『こころ』『我が猫』をこれまですべて挫折している身として、彼の大文豪の絶筆を読了出来るか、というのはチャレンジでもあったけれど、これは中々面白かった。筒井康隆の「会話文が凄い」という触れ込みのおかげだろうと思う。会話文というのも、地の文との分量比で随分と表現方法が変わってくる。

  • 会話文 + 地の文
  • 会話文のみ
  • 地の文のみ

凡庸な作家ならどれかの表現に偏りそうなものだけど、夏目大先生は違う。すべてのパターンを駆使して、登場人物の心情を描く。表面上の会話を、沸々とした感情表現を通して鮮やかに脚色していく。会話文のみの文章で、テンポ良く話を進めていく。圧巻は地の文のみの場面。女通しの口撃の場面は、さながらボクシングの殴り合いのような生々しさで、俺は想像力が無いから話の内容を深く考察出来ないんだけども、なにやらもの凄い戦いが繰り広げられていることは想像がつく。

 

主人公である津田の嫁・お延vs津田の妹・お秀が舌戦を繰り広げる場面の開幕の様子だけでも、筒井康隆のいう凄味が伝わってくる。

お延はこの一瞥をお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。しかしそれは自分のもっている技巧のどうする事もできない高い源からこの一瞥が突如としてめいてしまった後であった。自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力をもっていない彼女は、甘んじてその結果を待つよりほかに仕方がなかった。

 ここからいかにしてお延が、自分の手の内に有利なように会話を持っていこうかという考察が続く。この場面だけ地の文が多いので余計に印象に残る。

 

ただし、どろどろとした会話だけでなく、ユーモアのある文も漱石は実に上手だと思う。戦いが一段落したつかの間の場面で、津田が入院している病院の看護婦と何気ない会話をする場面は読んでいて実に楽しい。

 退屈凌ぎに好い相手のできた気になった津田のには締りがなかった。彼は面白半分いろいろな事をいた。
「君の国はどこかね」
「栃木県です」
「なるほどそう云われて見ると、そうかな」
「名前は何と云ったっけね」
「名前は知りません」
 看護婦はなかなか名前を云わなかった。津田はそこに発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返していた。
「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。いいかね」
「ええよござんす」
 彼女の名前の頭文字はであった。
か」
「いいえ」
「なるほどじゃあるまいな。じゃか」
「いいえ」
「待ちたまえよ、でもなし、でもないとすると。――ははあ、った。つやだろう。でなければ、か」
 津田はいくらでもでたらめを云った。云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。笑うたびに、津田はまた彼女を追窮した。しまいに彼女の名がつきだと判然った時、彼はこの珍らしい名をまだんだ。
「おさんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰がけた」
 看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。
「あなたの奥さんの名は何とおっしゃるんですか」
「あてて御覧」
 看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べたで云った。
「おさんでしょう」
 彼女はくあてた。というよりも、いつの間にかお延の名を聴いて覚えていた。
「お月さんはどうも油断がならないなあ」
 津田がこう云って興じているところへ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、ふり返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。

 

この作品は未完だが、これからいいところが始まるぞ、というところで終わるので、モヤモヤとした気持ちが残る。そのモヤモヤ感を拭いきれなかった人たちが、明暗の続編を執筆したりしていて、面白い。

ところで「未完の小説」の場合は、クラシック音楽の作品と比べると、読者が各々に好き勝手な終わり方を想像出来るところがよろしい。明暗の主人公・津田由雄がハッピーエンドを迎えるのか、地獄へ落ちるのかは想像の余地があるが、例えばシューベルトの『未完成』の3、4楽章を思い浮かべよ、と言われると大変難儀だから。

佐村河内守のゴーストライターは本業にて意外とキャッチーな『現代音楽』を描いていた

先日、「自分は音楽そのものを正しく聴いているんだろうか、評判やレッテルだけでその曲を判断してはいないか」という内容のブログを書いた。

 

そんな中、森下唯というピアニストの方が、「音楽についてのストーリー性」という題目と佐村河内騒動について語ったブログに注目が集まっている。

 

森下唯オフィシャルサイト » より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~

 

このブログの中で森下氏は、佐村河内氏の音楽を聴いたとき、「誰か裏にストーリーテラーがいるのでないか」「胡散臭い人間が胡散臭い売り方をしているのではないか」と感じたという。

 

それに続き、「何故現代でクラシック音楽の名曲が生まれないか」という素朴な疑問に対して、一つの示唆を与えてくれる文面が続く。

 

考えてみれば、あれらの音楽は現代に生まれた真の奇跡と言えるかもしれない。クラシック業界にある問題のひとつとして、能力のある作曲家は(多くの)演奏家が演奏したくなるような曲、聴衆が聴きたいような曲を書こうとしない、というのがある。そりゃそうなのだ。クラシックの作曲家というのは、少なくともオーケストラ楽器を用いた作曲については圧倒的な知識と技量を誇る。あらゆる技法を分析し自家薬籠中の物とできるような人が、過去の作品の焼き直し・パッチワークを作ることに甘んじて満足できるわけがない。感動的に盛り上げるための和声進行も知っている、恐怖を覚えさせるためのリズムも知っている、きらめきを感じさせるための管弦楽法も知っている。つまらない、つまらない。使い古された書法も聞き飽きた調性の世界もつまらない。面白いものを、自分だけの新しい音楽を書きたい。そういうわけだから、自分の作品として、あえて過去の語法に則ったスタイルの音楽を書く人間は、現代にはまずいない(そこからして胡散臭かったわけだ)。往年のクラシック作品みたいに聴いていて素直に心の動くような書法の音楽は、たとえば映画やアニメ、ゲームのBGMとして「発注」されない限り、なかなか生まれない。

 

なるほど、人生を賭けて音楽に取り組み勉学に励んだものにとっては、一般的な聴衆が求める「良い曲の基準」というのが低すぎて『つまらない』という訳だ。逆に一般的な聴衆からすると、そんな難しい事をされても解らないから『つまらない』という、制作側とリスナーとの距離がますます長くなっていく・・・という現象が起きる。

 

そう考えると、ロックのリフなんてのは商業的に見て世紀の大発明だと改めて感じる。

キンクスのあの有名なリフ、You Really Got Meなんて人の心を掴むのに5秒とかからない。


the kinks- you really got me - YouTube

 

これにディストーションの、エッジの効いたスパイスを加えれば完璧だ。


Van Halen - You Really Got Me - YouTube

 

話を戻して、今回の騒動のスパイスは紛れも無く、「身体障害を持ちながら、闇の中で掴んだ一筋の光=旋律」というストーリーだった。現代音楽作曲家の理論的な冒険と比べると、なんと解りやすくてキャッチーなことか。

 

これから、『一枚のアルバムを買って家でじっくりと聴く』というシチュエーションは益々少なくなっていくだろう。iTunesで曲単位で楽曲を購入するか、ストリーミングで大量の音楽を次から次へと聴き続けるかの2択なのだから。ますます、曲目のキャッチーな旋律か、単純明快で理解し易いストーリーが必要となってくる。

 

こうなるともう、広告代理店の独断場になってくるなあ・・・うーむ段々と話がまとまらなくなってきたので、田中氏の楽曲を最後に貼っておこう(有耶無耶)

 


Takashi Niigaki: Invention or Inversion III - YouTube

 

 始めは「なんだか難しそうだなあ」とページを閉じそうになるけれど、コメディのような要素があって実に楽しい作品であった。会場も笑いに包まれている、なんと微笑ましい光景か。

デュアン・オールマンの名言

いつもこの言葉に励まされています。若くして亡くなった天才スライドギタリストの名言をご紹介。

ロックスターの名言[6/6�n] ■happyの素

どこに行っても、結局は同じことなんだ。
いい人間がいると思えば、どうしようもないバカもいる。

生きていくためには、この2種類の人間を見分けなきゃならない。

だけど、誰かにとっては鼻持ちならない奴でも、他の誰かにとってはいい奴なのかもしれない。

だから、誰に対しても気持ちよく振舞って、誰に対しても敬意を忘れてはいけないんだ。
そうすれば君も自然と尊重されるようになるんだ。

他人に対する敬意の気持ちと、ほんのちょっぴりの愛があれば、全部がまるく収まる。

それから、自分の心を他人に見せるのを恐れたりしてはだめだ。

自分の心を解放して思いっ切り自由になるか、まるでつまらない生活を送るか、そのどっちかだ。

だったら、いつもいつもロックして、思いっ切り楽しんだほうがいいに決まっている。

楽しく過ごすか、つまらない毎日を送るか、そのどっちかを選べといったら、断然楽しい方を選ぶ。

つまらない毎日なんて、イヤっていうほど味わってきたから、もうゴメンだ。


デュアン・オールマン(1946-1971)
オールマン・ブラザーズバンドのリーダー。エリッククラプトンの『いとしのレイラ』に代表される天才的なスライドギターを聴かせた。『フィルモア・イースト・ライブ』はロックのLIVE名盤として名高い。バイク事故により夭折。25歳という若さだった。

The Allman Brothers at Fillmore East

The Allman Brothers at Fillmore East

スーパーボウルでのレッチリのテープ演奏は名演である

2月2日のスーパーボウルのハーフショーで、レッチリが演奏した際、テープ演奏(いわゆる当てぶり)だったことが話題になっている。このことについて、同バンドのベーシストであるフリーがコメントを発表した。

 

レッチリスーパーボウルでのテープ演奏についてフリーの公開書簡の全文訳を掲載

http://ro69.jp/news/detail/96662

 

その時の動画がこちら。


Bruno Mars and The Red Hot Chili Pepper's ...

 

なんともパワフルで印象的なステージだ。アンソニーはイヤモ二をつけて歌っているが、確かにフリーやジョシュの楽器はプラグに繋がれていない。コメントの中でフリーはこう綴っている。

 

実際のパフォーマンスではジョシュ(・クリングホッファー)、チャド(・スミス)と俺は事前にレコーディングしてある音に合わせて演奏しているわけだから、シールドを繋げる必要もないし、だから、ステージでも繋げてなかったんだよ。たとえば、楽器演奏が実はあらかじめレコーディングされていたことにがっかりしたと言っているような人たちを驚かせないように、シールドを形だけでも繋げておくことはできなかったのか? もちろん、簡単にできたはずだし、そうしたらなにも問題にならなかったはずだよ。でも、俺たちは振りをして装おうのはやめようということにしたんだ。あの状況ではあれが一番リアルなやり方かなと思えたんだ。生ヴォーカル以外では、とんでもない数の人たちの前で音楽ビデオを作っているような気分だったし、それも本番一発限りのものだったんだからね。俺たちの思いは、俺たちの気概をみんなに届けたいっていうことにあったんだよ。 

 

技術的な制約と、エンターテイメント性を両天秤にかけて、彼らはあえて、「プラグを繋がない」という選択をした訳だ。これはとても潔い決断だと思う。出来ることなら生で音楽を聴かせたいし、それが本当のLIVE。だけれど、その場を成立させるために「全力で演じる」というスタンスは、さすがレッチリ、百戦錬磨のLIVEバンドだ。(彼らが日本のプロモーターから”世界最強”と謳われていたことが一時期あったことが懐かしい・・・ファンにとっては正に世界最強だけれども)

 

ところで当てぶり、口パクについて少し触れると、僕はあるPAさんから、有名アーティストの口パクをしている回線の音を聴かせてもらったことがある。その中で、走ったりして息があがってゼエゼエと言っている声、時折歌ったり、歌わなかったりしている様子が克明に残されていた。これも、舞台を成立させる仕掛けとしては致し方ないもので、実際のLIVEの音源は、会場で口パクに気付いた人は少ないんじゃないか、と思わせる素晴らしい出来だった。

 

テープ演奏が成功したかの一つの指針は、観客がどれだけ満足したかに尽きると思う。すなわち、騙されたという感情がどれだけ少ないか。そしてこれはLIVEに参加した者だけがが判断する権利を持つ。A○B48はよく「口パクだ」と叩かれているが、実際に現場に居合わせた人はどう感じているのか。口パクと知りながらも、満足していれば、それで結構な話なんじゃないか。

 

最後に、当てぶり(口パク)を成功させる大事な要素のまとめ

  • その場に居合わせた観客が満足していること
  • 観客が「当てぶりである」ということを知っていること、もしくは後日知らされたとしても「ああ、やっぱりね」程度で済まされること
  • 演奏者は、全力で演奏を「演じる」こと(フリーのように!)

 

あれ、この条件でいくと、ゴールデンボンバーが最強になってしまうけど・・・まあ、いいか。

”佐村河内守ゴーストライター事件”と”ジョシュアベルの実験”から思うこと

クラシック界をゆるがす大事件が起こった。「全聾の天才作曲家」という触れ込みで世間を賑わし、交響曲第一番”HIROSHIMA”がプロのオーケストラに演奏され、曲のタイトルを冠した小説もバカ売れ(僕も読みました・・・)した佐村河内守氏のゴーストライターが存在したというスキャンダル。

 

プロの演奏家も絶賛し、「あれだけの苦難の中で作曲したのだから、想像を絶する努力」「同時代の作曲家として嫉妬するくらい」「魂を揺さぶられる」と評した作品は、その実、新垣隆氏という”無声音楽作曲家”という肩書きの人物によって作曲されたものだったのである。

 

新垣隆さんが告白「私が佐村河内守さんのゴーストライター」

 

もちろん、プロの演奏家にとって、この作品は素晴らしいものだったのだろう。だが、もし「全聾の作曲家」というセンセーショナルな宣伝文句が無かったら、彼らの耳には届かなかった可能性は非常に高い。一般の愛好家にとってはなおさら、その様なフィルターが無かったら、Youtubeで再生することもなく通り過ぎてしまうだろう。

 

”有名作曲家”というブランディングに多くの人が騙された訳だが、もしもその幻影が存在しなかったとしたら、人々が正当に音楽を評価出来るかどうか、という問題について考えてみたい。

 

ここで一つの動画をご覧頂きたい。ストリートミュージシャンの風体をした男が、通行人の行き交う中で演奏を始める。曲目はバッハのシャコンヌで、無伴奏ヴァイオリン作品の金字塔とも言える作品である。しかし人々はせわしなさそうに通り過ぎ、最後に残った一人の女性だけが、彼の演奏を絶賛する・・・


Stop and Hear the Music - YouTube

 

タネ明かしをすると、この男は世界的に有名なヴァイオリニスト、ジョシュアベルである。僕もはヴァイオリンを習っていたので、もちろん彼の名は知っているし、ラロのスペイン交響曲が収録されたCDは宝物だ。もしも気づいたなら、駆け寄ってサインをしたいくらいの人物。ただ、朝の忙しい時間に大宮の駅前でベルが演奏していたら・・・自分も気付かずに素通りしてしまうかもしれない。もしくは、「今朝ねえ、大宮の駅前で凄い上手でハンサムな人がバッハを弾いてたんだよ」と数人に言いふらすぐらいか。

 

「音楽から権威や肩書きが無くなってしまったら、自分の中で良い音楽とそうでない音楽を区別出来るか」

 

これは個人的には甚だ不安だ。例えば一枚のCDを買うとする。モーツアルト(という18世紀に活躍した天衣無縫の天才作曲家)が作った(後期交響曲の傑作として名高い)交響曲41番『ジュピター(というモーツアルトがつけた訳では無いニックネームを持つ曲)』を、(往年の大指揮者でモーツアルトの演奏に対する評価でも名高い)ベームの指揮の盤を買おう。演奏はこれまた名高い・・・と、延々批評家や音楽家がつけた美麗字句が頭の中をよぎる訳だ。

 

その中で、僕は本当にこの曲に対して”自分の判断”で”正当な評価”が出来ているだろうか。ひょっとしたら、自分が聴いているのは”音楽”では無くて、モーツアルトやジュピターやベームといったそのブランドなんじゃないか。だとしたら、あまり音楽を聴いていることに意味は無い。本を読んで知識を増やすことで聴いたフリをすることと変わりないから。

 

また、ある日ラジオからベートーベンの『運命』が聴こえてきた。「おーこれは凄い演奏だ!迫力があるなあ」と思っていたら、曲終わりに演奏者の紹介が。「ただいまの演奏は、サイモンラトル、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による・・・」これを聞いて、僕はホッとした。ホッとしたんだけど、その感覚って、人の評価が無ければ自分では何も感じることが出来ないことの裏付けでもあるんじゃないか?

 

音楽が尺度を持たない一つの理由として、「値段がつかないこと」が挙げられると思う。絵画の世界だったら、ゴッホの本物の絵が数千円で売られることは無いだろうし、たとえ本物だとしても秋葉原の絵売り並に怪しい目で見ざるを得ない。音楽でもコンサートにはプライスが付いているが、こちらは”価値そのもの”に対しての値段では無い。ベルリンフィルウィーンフィルも、たった3万円の価値しか無い訳がないし、『作品そのもの』についての価格は誰にもつけられないからだ。だって形が無いんだから!

 

音楽ほど、幻想の価値がどんどんつけられていくものも珍しい。

 

そのような幻想に紛らわされないよう、「まず自分の耳で、何も考えず、感じる」「その音楽がどのように評価されているのを正しく理解する」という2点はとても大事だと思う。そのために、たくさん聴いて、勉強して、時には自分で弾いてみる、という作業が、どうしても必要になってくるのだろう。(いや、自分はそんな偉そうに言うほど勉強してないけど、理想論として・・・)

 

この記事を書いている矢先、ニュースZEROで「現代のベートーヴェンと呼ばれた作曲家が・・・」と報道されていた。僕らはベートーヴェンの、一体何を聴いているんだろう。

 

 

 

サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番

サン=サーンス:ヴァイオリン協奏曲第3番

 

 

 

浪花のモーツァルト キダ・タローの ほんまにすべて

浪花のモーツァルト キダ・タローの ほんまにすべて

 

 

 

 

 

 

スコセッシのSilenceが待ち遠しい!

 

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僕の大好きな映画監督、マーティンスコセッシが遠藤周作の”沈黙”を映画化する。公開予定は2015年。非常に楽しみだ。

 

スコセッシと言えば、『Good fellas』『Departed』などのギャング映画、狂気のサスペンス『Shatter island』、The Bandのラストライブ『The last waltz』、ローリングストーンズのライブを丸々映画化した『Shine a Light』が大変面白かったので、お気に入りの監督の一人。

 

近年は『Hugo(ヒューゴの不思議な発明)』で映画愛を3D画面一杯に表現し、オスカーに輝いた。名実ともに現代の巨匠と言えるだろう。

 

そんなスコセッシが、日本文学界の巨匠、遠藤周作の『沈黙』を撮る!と聞いていてもたっても居られなかったはずなのだが、気がつくと月日は流れていき、「一体いつ公開されるのか?そもそも、公開はされるのか?」と不安になってきたのでネットで検索してみた。

 

すると実際に、彼は『沈黙』の撮影に中々取りかからないため、プロデューサーのCecchi Goriに訴えられていた・・・

Martin Scorsese Settles 'Silence' Suit - Deadline.com

 

朗報として、リーアムニーソンのキャスティングが決定!迫害される苦難のキリシタンをどう演じるか、興味深々だ。

Liam Neeson cast in Martin Scorsese’s ‘Silence’ | The Indian Express

 

渡辺謙もキャスティングされており、リーアムニーソンとの男気溢れる競演を期待!

なお、撮影開始は2014年6月から、という情報も。

Adam Driver Joins Andrew Garfield & Ken Watanabe In Martin Scorsese’s ‘Silence’ | Flicks and Bits

 

 

 

 

 

個人的にとてつもない衝撃を受けた小説7選

このブログを目にしてくれた本好きの方々へ、僕が27年の人生の中でとてつもない衝撃を受けた小説をご紹介。人に自慢出来るほど多くの本を読んだ訳では無いけれど、どれもガツンと心に来る劇薬であること間違いなし。

 

 安部公房箱男

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 

これだけ奇怪な発送とプロットの小説が他にあるだろうか?段ボールに穴を開け、その中で暮らす男の手記。安部公房は、後になってもずっと残る一文が散りばめられていると思う。

 

 

カフカ『変身』

変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)

 

 これも凄い小説。ある朝目覚めたら虫になっていた男の悲しい物語。現代文学の永遠の古典。薄くて読みやすいのもGOOD。

 

 

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

東大教授が奨める云々のランキングで常に第一位に君臨する超大作。この本を初めて読んだときの読後感は忘れられない。『謎解きカラマーゾフ』を読むと更にこの作品の奥深さが分かって楽しみが広がる!

 

 

 Keith Richards 『Life』

Life

Life

 

 ロックスターの翻訳書は決まって「俺は〜だぜ」のような口調に変換されてしまうけど、原書で読むとそれらのフィルター無しに、素直に心に入ってくる。特に前半で音楽について語ったところは、驚くほどスラスラ読めた。内容がとても共感出来るものだったので。

 

 

大森荘蔵『流れとよどみ』

流れとよどみ―哲学断章

流れとよどみ―哲学断章

 

 感情はどこからくるのか?例えば脳内物質が放出されたところで、その「感情」がどこからくるかの説明にはなっていない、と思い、辿り着いた哲学の本。面白い。柳のお化けは脳内では無く、そこにいた!

 

 

 伊坂幸太郎アヒルと鴨のコインロッカー

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

 

小説ってこういう遊びも出来るんだ、と関心した本。とにかく「売れる」 要素が満載(悪い意味では無く)で、人の心を掴むことに長けた人だなと感心する。

 

 

百田尚樹海賊とよばれた男

海賊とよばれた男 上

海賊とよばれた男 上

 

 最近は「古典的名著」と呼ばれる作品よりも、百田さんのようなベストセラー作家の本を読むことが多くなった。未知のものに対してやや億劫になっているのかも。

 

以上、哲学書も交えてかなり雑多な内容になってしまったが、個人的にはどれも読んで後悔はしない、その場の楽しさも、ずっと先の人生にも影響を及ぼすであろうオススメ本の7選であった。